カーボンプライシングの国際潮流:企業の排出量削減義務と日本企業の戦略的対応
はじめに:カーボンプライシングが企業経営の主要課題に
気候変動問題への対策は、SDGs目標13「気候変動に、具体的な対策を」の中心課題であり、国際社会全体の喫緊の課題として認識されています。パリ協定採択以降、各国・地域は温室効果ガス排出量削減に向けた目標を設定し、様々な政策手段を講じています。その中でも特に国際的な潮流となっているのが、排出に価格を付ける「カーボンプライシング」の導入・強化です。
カーボンプライシングは、排出する炭素量に応じて経済的な負担を課すことで、企業や個人の排出削減行動を促す市場メカニズムです。炭素税や排出量取引制度(キャップ&トレード方式)などが主な手法として挙げられます。この制度は、単なる環境規制ではなく、企業のコスト構造、投資判断、事業戦略、国際競争力に直接的な影響を与えるため、企業のSDGs推進担当者だけでなく、経営企画、財務、調達など幅広い部門にとって重要な検討事項となっています。
本稿では、カーボンプライシングに関する世界の最新動向、特に主要国・地域の具体的な制度とその特徴、日本における現状と課題、そして企業がこの潮流にどのように戦略的に対応すべきかについて、専門的な視点から詳細に解説します。
世界のカーボンプライシング潮流:制度の多様化と拡大
世界の多くの国・地域がカーボンプライシングを導入または検討しており、その適用範囲と価格水準は年々拡大しています。世界銀行のレポートによると、2023年時点で、炭素価格メカニズムは世界全体の排出量の約23%をカバーしており、その数は70を超えています。
主要な制度とその特徴
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排出量取引制度(ETS: Emission Trading System)
- 概要: 温室効果ガス排出量の上限(キャップ)を設定し、排出枠を企業に割り当てます。企業はその排出枠内で活動するか、排出枠が不足する場合は市場で購入、余剰の場合は売却します。これにより、排出削減コストが最も低い主体が削減を行うインセンティブが生まれます。
- 事例:
- EU-ETS: 世界最大かつ最も成熟したETSです。電力、産業、航空(EU域内便)が対象で、海運、建築、運輸への拡大が進んでいます。排出枠価格は市場の需給に応じて大きく変動しますが、近年は高水準で推移しています。また、国境炭素調整メカニズム(CBAM)の導入により、EU域外からの輸入製品に対する炭素価格が課されるようになります。
- 中国ETS: 世界最大の排出量をカバーするETSです。当初は電力部門のみが対象でしたが、今後他の産業への拡大が計画されています。排出枠価格はEUと比較するとまだ低い水準にあります。
- 米国(一部州): カリフォルニア州(Cap-and-Trade Program)や北東部9州(RGGI: Regional Greenhouse Gas Initiative)などがETSを導入しています。連邦レベルでの包括的な制度はありません。
- 韓国ETS: 複数のフェーズを経て対象業種・排出量を拡大しています。
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炭素税
- 概要: 温室効果ガス排出量1トンあたりに対し、固定された税金を課します。価格の予見性が高い一方で、排出量削減効果は税率に依存します。
- 事例:
- スウェーデン、スイス、カナダ、シンガポールなどが炭素税を導入しています。特に北欧諸国では税率が高く設定されています。
- カナダは連邦政府が基準価格を設定し、各州がETSまたは炭素税のいずれかを選択・導入する方式をとっています。
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その他のメカニズム
- ベースライン&クレジット制度: 目標値(ベースライン)に対して削減した量に応じてクレジットが付与され、市場で取引される制度です(例: 日本のJ-クレジット制度)。
- 国境炭素調整メカニズム(CBAM): 特定製品の輸入に対して、生産国での炭素価格を考慮した調整金を課すことで、カーボンプライシングを導入していない国からの輸入品との公平性を図り、炭素リーケージ(排出規制の緩い国への産業移転)を防ぐ目的があります(例: EU-CBAM)。
世界潮流の共通項
- 適用範囲の拡大: 最初は電力部門やエネルギー多消費産業に限定されることが多いですが、運輸、建築、農業など、より広範な部門への適用が検討・実施されています。
- 価格水準の上昇: 脱炭素目標の強化に伴い、排出削減のインセンティブを高めるために価格水準を引き上げる動きが見られます。
- 国際連携と相互運用性の検討: 国境を越えた取引や制度間の連携(リンケージ)による市場拡大、効率化、炭素リーケージ対策の議論が進んでいます。
日本のカーボンプライシング現状と企業が直面する課題
日本でもカーボンプライシング導入の議論が長らく行われてきましたが、国際的な潮流と比較すると、その導入と本格的な運用は遅れていると指摘されることがあります。
日本の現状
- 地球温暖化対策税(炭素税): 2012年に導入されましたが、税率が低く、排出削減への明確なインセンティブ効果は限定的であるという見方があります。
- 排出量取引制度: 制度としては導入されていませんが、一部の自治体(東京都、埼玉県)が独自に導入しています。
- GXリーグ: 2022年に開始された、脱炭素に積極的に取り組む企業が参加するイニシアチブです。参加企業間で排出量取引を行う枠組み(GX-ETS)が試行されています。これは自主的な枠組みであり、法的な排出量規制を伴うものではありません。
- 今後の政府方針: GX推進法に基づき、2028年度から電力分野を対象とした有償排出量取引、2030年度から産業分野を対象とした排出量取引、そして将来的な賦課金(炭素税に類するもの)の導入が検討されています。
日本企業が直面する課題
- 国際的なカーボンプライシングへの対応: EU-CBAMのように、取引相手国のカーボンプライシング制度への対応が求められるケースが増加しています。特に、EUに製品を輸出する製造業などは、自社製品のサプライチェーンにおける炭素排出量を正確に把握し、CBAMの影響を評価・管理する必要があります。
- 国内制度の不確実性: 今後日本で導入されるカーボンプライシング制度の詳細(対象、価格水準、排出枠の配分方法など)がまだ流動的であり、企業は将来のコスト負担や対応策について不確実性を抱えています。
- コスト増の可能性: 国内外でのカーボンプライシング強化は、直接的または間接的に企業のコスト増につながります。特に、エネルギー多消費産業や、エネルギーコストが製品価格に大きく影響する産業においては、競争力への影響が懸念されます。
- サプライチェーンへの波及: 自社だけでなく、サプライヤーや顧客を含むバリューチェーン全体での排出量削減が求められるようになり、サプライヤーへのデータ開示要求や削減要求が増加する可能性があります。
- 技術開発・投資: カーボンプライシングによる経済的インセンティブを最大限に活用し、コスト増を機会に変えるためには、省エネ技術や再生可能エネルギー、CCUS(二酸化炭素回収・利用・貯留)などの脱炭素技術への戦略的な投資判断が不可欠です。
企業が取るべき戦略的アプローチと展望
カーボンプライシングは、単なる負担増として捉えるのではなく、企業のレジリエンス強化と競争力向上の機会として捉えることが重要です。SDGs目標13達成への貢献としても、企業の脱炭素戦略の中核に位置づけるべきです。
具体的な戦略ステップ
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自社およびサプライチェーンの排出量把握・可視化:
- Scope 1(直接排出)、Scope 2(エネルギー起源間接排出)、Scope 3(その他間接排出)の排出量を正確に算定し、カーボンプライシングによる将来的なコスト影響をシミュレーションします。
- 特に、サプライチェーン上流・下流における排出量(Scope 3)の把握は、国際的な要請(CDP質問書など)でも重視されており、CBAMのような国境調整措置への対応にも不可欠です。
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削減目標と戦略の策定:
- パリ協定に整合した科学的根拠に基づく目標(SBT: Science Based Targets)を設定します。
- 目標達成に向けた具体的な削減策(省エネ投資、再生可能エネルギーへの転換、プロセスの変更、低炭素製品の開発など)を策定し、投資計画に落とし込みます。カーボンプライシングによる将来コスト増を考慮に入れることで、脱炭素投資の経済合理性を高めることができます。
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カーボンプライシング制度への対応:
- 国内外のカーボンプライシング制度(炭素税、ETS、CBAMなど)の最新動向を継続的にモニタリングし、自社事業への影響を評価します。
- ETS対象企業となる場合は、排出枠の取得・管理、取引戦略を検討します。
- CBAM対象となる輸出を行う場合は、対象品目の排出量算定、必要な認証・申告手続きへの対応準備を進めます。
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政策アドボカシー:
- カーボンプライシング制度の設計や運用に関する国内外の政策議論に積極的に関与し、自社の意見を表明します。透明性高く責任ある関与を心がけます。
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情報開示とコミュニケーション:
- TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)フレームワークなどに沿って、気候変動関連のリスク(カーボンプライシングによるコスト増含む)と機会、削減目標、実績、戦略などを投資家や他のステークホルダーに対して適切に開示します。
- 製品のLCA(ライフサイクルアセスメント)に基づく炭素排出量情報などを開示することで、顧客の責任ある消費(SDGs目標12)を支援し、競争優位性を築くことも可能です。
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新たなビジネス機会の探索:
- 脱炭素社会への移行は、低炭素技術やサービス、コンサルティング、サステナブル製品など、新たな市場とビジネス機会を創出します。カーボンプライシングによる市場メカニズムの変化を捉え、これらの分野への参入や事業拡大を検討します。
結論
カーボンプライシングは、気候変動緩和策として国際的に主流化が進んでおり、その適用範囲と価格水準は今後さらに拡大すると予測されます。日本企業は、この不可避な潮流を深く理解し、単なる規制対応やコスト負担としてではなく、事業継続における重要なリスク管理および競争力強化のための戦略的課題として位置づける必要があります。
SDGs目標13の達成に貢献することは、企業の社会的責任であると同時に、変動する事業環境下でのレジリエンスを高め、長期的な企業価値を創造するための重要な経営戦略です。カーボンプライシングへの戦略的な対応は、企業の脱炭素経営を加速させ、持続可能な社会の実現に貢献する上で不可欠な要素と言えるでしょう。企業は、国内外の動向を注視しつつ、自社の排出量削減に積極的に取り組み、透明性の高い情報開示とステークホルダーとの対話を進めていくことが求められています。