ディーセントワークの国際潮流と日本企業の戦略:SDGs目標8達成に向けた働きがいと持続可能な成長
ディーセントワークとは:SDGs目標8の中核概念
SDGs目標8「働きがいも経済成長も」は、「包摂的かつ持続可能な経済成長、雇用およびすべての人々のための働きがいのある人間らしい仕事(ディーセントワーク)を推進する」ことを目指しています。この目標の中核にある「ディーセントワーク」という概念は、国際労働機関(ILO)が提唱したものであり、単に雇用がある状態を指すのではなく、労働者の権利が保護され、十分な収入が得られ、社会保障が確保され、そして働く上での社会対話が保障されるなど、「人間らしい」働き方を包括的に定義しています。企業活動におけるSDGs推進において、このディーセントワークの実現は、自社だけでなくサプライチェーン全体で追求すべき重要な責任となっています。
ディーセントワークを巡る世界の潮流
ディーセントワークの推進は、現在、国際社会において多角的なアプローチで強化されています。
国際機関の動きと基準設定
ILOは、ディーセントワークの原則に基づき、結社の自由、強制労働の禁止、児童労働の廃止、差別の撤廃といった労働における基本的原則と権利の確立を強く提唱しています。これらの原則は、多くの国際的な労働基準やガイドラインの基礎となっています。また、OECDは「多国籍企業行動指針」において、企業に対し人権、労働、環境、腐敗防止といった側面での責任ある行動を求めており、その中でも労働に関する規定はディーセントワークの実現を促すものです。
法規制強化とデューデリジェンスの拡大
近年、欧州を中心に、サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンスを義務付ける法規制が導入または強化される動きが加速しています。ドイツのサプライチェーンデューデリジェンス法や、EUレベルでのコーポレート・サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)案などがその例です。これらの規制は、企業に対し、自社の事業活動およびサプライチェーン全体における強制労働、児童労働、危険な労働環境、不当な低賃金といったディーセントワークに反するリスクを特定し、防止・軽減措置を講じ、その状況を開示することを求めています。これは、単なるリスク管理に留まらず、企業が積極的にサプライチェーン全体でのディーセントワーク推進に責任を持つべきであるという国際的な潮流を示しています。
投資家からの要求とESG評価
ESG投資の拡大に伴い、投資家は企業の環境(E)だけでなく、社会(S)およびガバナンス(G)側面への関心を高めています。特に「S」の要素として、人権、労働環境、従業員の健康と安全、多様性、公正な賃金といったディーセントワークに関連する指標が重要視されています。ESG評価機関も、企業のディーセントワークへの取り組み状況を評価項目に含めており、企業の評価や資金調達に影響を与える要因となっています。投資家は、サプライチェーンにおける労働問題が企業のレピュテーションリスクや訴訟リスクにつながる可能性を認識しており、透明性のある情報開示と改善努力を強く求めています。
技術革新と労働の未来に関する議論
AI、自動化、デジタル化といった技術革新は、働き方や雇用構造に大きな変化をもたらしています。これにより、一部の職種が失われるリスクが指摘される一方で、新たな職種や働き方が生まれる可能性もあります。国際社会では、この技術変革のプロセスにおいて、いかに公正な移行(Just Transition)を実現し、労働者が新たなスキルを習得し、人間らしい働き方を維持できるかに関する議論が活発に行われています。企業には、従業員のリスキリングやアップスキリングへの投資、そして技術導入における労働者との対話が求められています。
日本の現状と企業が直面する課題
日本においてもディーセントワークの重要性は認識されていますが、国際的な潮流と比較すると、いくつかの課題が存在します。
国内の労働市場における課題
日本では、非正規雇用の割合の高さ、正規・非正規間の待遇格差、長時間労働、低い労働生産性、ジェンダーギャップ、多様性の受け入れといった労働市場の構造的な課題が指摘されています。これらの課題は、国内におけるディーセントワークの実現を阻む要因となっています。少子高齢化による労働力不足も深刻化しており、外国人労働者の受け入れが進む中で、多様な労働者の権利保護と公正な待遇の確保が一層重要になっています。
サプライチェーンにおける労働問題への対応
日本企業は複雑なグローバルサプライチェーンを有していますが、自社の一次サプライヤーだけでなく、それより下位のサプライヤーにおける強制労働や児童労働といった深刻な人権・労働問題のリスクに対する認識や対応が、国際的な期待水準に追いついていないケースが見られます。国際的な人権デューデリジェンス規制の強化は、日本企業にとって大きなプレッシャーとなりつつあります。サプライチェーン全体での可視化と、リスクの高い地域やサプライヤーにおける是正措置の実施が急務です。
情報開示とエンゲージメントの遅れ
サステナビリティ報告において、人権や労働に関する具体的なリスク評価、対応策、成果に関する情報開示が十分でない企業も少なくありません。国際的な開示基準(GRI、SASBなど)や枠組み(TCFD、TNFDなど)では、社会側面、特に人権や労働に関する開示の重要性が高まっています。また、労働組合や従業員、サプライヤー、地域社会といったステークホルダーとの建設的な対話(エンゲージメント)を通じた課題解決のアプローチも、国際的なスタンダードとして重視されていますが、日本企業においては形式的な対応に留まるケースが見受けられます。
日本企業が取るべき戦略と実践的アプローチ
国際的なディーセントワーク推進の潮流と日本の現状を踏まえ、企業が持続可能な成長を実現するためには、戦略的な取り組みが不可欠です。
サプライチェーン人権・労働デューデリジェンスの体制構築
強制労働、児童労働といった最も深刻な労働リスクに焦点を当て、サプライチェーン全体でのリスク評価プロセスを構築することが第一歩です。リスクの高い地域や業種、サプライヤーを特定し、実効性のあるモニタリング(監査、第三者評価など)を実施します。発見された問題に対しては、是正計画の策定と実施、そしてサプライヤーの能力構築支援を行います。これは、単なるコンプライアンス対応ではなく、サプライチェーンのレジリエンス強化やサプライヤーとの長期的な信頼関係構築にも繋がります。
国内の労働環境改善と人的資本への投資
自社の従業員に対するディーセントワークの推進は、企業の根幹を成す取り組みです。長時間労働の削減、公正な賃金体系の整備、安全衛生管理の徹底、ハラスメント対策、多様な働き方の推進(リモートワーク、フレキシブルタイムなど)、そして従業員の健康とウェルビーイングへの投資を進めます。AIなどの技術革新に対応するため、従業員のリスキリングやアップスキリングプログラムを体系的に提供し、労働移動やキャリアパスを支援することも重要です。これらは、従業員のエンゲージメント向上、生産性向上、優秀な人材の確保・定着に貢献します。
透明性の高い情報開示とステークホルダーエンゲージメント
ディーセントワークへの取り組み状況、特定されたリスク、講じられた対策、そしてその効果について、国際的な報告基準を参照しながら透明性の高い情報開示を行います。ウェブサイトやサステナビリティ報告書、統合報告書などを通じて、ステークホルダーに対し企業の責任ある行動を明確に伝えることが信頼構築に不可欠です。また、労働組合、従業員代表、市民社会組織、専門家など、多様なステークホルダーとの継続的な対話を通じて、課題解決に向けた協力関係を構築することも重要です。
ビジネス機会としてのディーセントワーク
ディーセントワークの推進は、リスク回避やコストと捉えられがちですが、新たなビジネス機会創出にも繋がり得ます。例えば、従業員の働きがい向上は創造性やイノベーションの促進に繋がります。また、公正な労働基準を遵守した製品やサービスは、倫理的消費に関心の高い消費者層からの支持を得られる可能性があります。さらに、労働問題解決のための技術やコンサルティングサービスといった、新たな事業領域への展開も考えられます。
まとめ:持続可能な企業価値創造のためのディーセントワーク
ディーセントワークの実現は、SDGs目標8達成に向けた企業の貢献であると同時に、グローバル化が進む現代において企業が持続的に成長するための基盤です。国際的な法規制や投資家の期待が高まる中で、日本企業は、自社およびサプライチェーン全体でのディーセントワーク推進を経営戦略の中核に据える必要があります。これは、単に社会的な要請に応じるだけでなく、労働リスクの低減、企業価値の向上、そして新たなビジネス機会の創出に繋がる重要な投資であると認識すべきです。専門的な知見を活用し、国際的な潮流を踏まえた戦略的なアプローチを進めることが、これからの日本企業に求められています。