人的資本経営の国際潮流と日本企業の戦略:SDGs視点での価値創造と情報開示
人的資本経営が企業価値創造とSDGs達成のカギとなる時代
近年、企業の持続的な成長において、「人的資本」の重要性がかつてないほど高まっています。単なるコストではなく、投資の対象として人材を捉え、その能力を最大限に引き出す「人的資本経営」は、グローバルな経営アジェンダの中心となりつつあります。この潮流は、SDGs(持続可能な開発目標)の達成とも深く結びついています。SDGsの目標5(ジェンダー平等)、目標8(働きがいと経済成長)、目標10(人や国の不平等をなくそう)といった社会的な側面は、まさに人的資本の質の向上や多様性の推進、公正な労働環境の整備に直結するからです。
企業が人的資本に積極的に投資し、その成果を適切に開示することは、投資家からの評価を高め、優秀な人材を引きつけ、最終的には企業価値の向上に繋がります。同時に、従業員の働きがいや機会の平等、健康・安全の確保といった取り組みは、SDGsが目指す包摂的で持続可能な社会の実現に貢献するものです。本稿では、人的資本経営に関する世界の最新動向と、それに対する日本の現状、そして企業がSDGsの視点を取り入れながら人的資本経営を推進し、実践的な価値を創造するための戦略について専門的な視点から解説します。
世界の人的資本経営と情報開示の潮流
グローバルな視点では、投資家が非財務情報、特に人的資本に関する情報を企業の長期的な価値判断の重要な要素として捉える傾向が顕著になっています。これを受け、各国や国際機関では、人的資本に関する情報開示の枠組み整備が進んでいます。
- ESG投資の深化: ESG(環境、社会、ガバナンス)投資において、「S」(社会)の要素としての人的資本への注目度が高まっています。人材の多様性、労働安全、労働条件、従業員エンゲージメント、スキル開発などが、企業のレジリエンスやイノベーション能力を測る指標と見なされています。
- 国際的な開示基準の動向: IFRS財団のISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が開発するサステナビリティ開示基準(IFRS S1, S2など)では、気候関連以外のサステナビリティ関連リスク・機会として、人的資本に関する開示の重要性が指摘されています。米国SEC(証券取引委員会)も、2020年から上場企業に対して人的資本に関する開示を求めています。これらの動きは、単なる従業員数の開示に留まらず、人材の獲得・育成・定着、多様性、従業員の健康・安全、エンゲージメントといった質的な側面の開示を促しています。
- 先進企業の取り組み: グローバル企業の間では、人的資本を経営戦略の中核に位置づけ、具体的な目標(KPI)を設定し、その進捗を公開する動きが進んでいます。例えば、特定の役職における女性比率目標、従業員のスキル再開発への投資額、従業員エンゲージメントスコア、DEI(多様性、公平性、包容性)に関する具体的な取り組みとその成果などが詳細に報告されています。これは、企業が社会的な責任を果たすだけでなく、多様な人材の活躍がイノベーションや市場競争力の源泉となることを認識しているからです。
これらの国際的な潮流は、人的資本が単なるコストセンターではなく、企業価値創造のドライバーであり、持続可能な社会を築く上での基盤であるという共通認識に基づいています。
日本の人的資本開示義務化と現状の課題
日本でも、グローバルな流れを受け、人的資本に関する情報開示が強化されています。2023年3月期決算以降、有価証券報告書において、人的資本に関する特定の項目の開示が上場企業に義務付けられました。これにより、「人材育成方針」「社内環境整備方針」に加え、「多様性に関する指標」(女性管理職比率、男性育児休業取得率、男女間賃金格差など)の開示が必要となりました。
この義務化は、日本企業が人的資本への投資を加速させ、企業価値向上に繋げる大きな一歩となり得ます。しかし、現状いくつかの課題も指摘されています。
- 開示の形式化・形骸化のリスク: 義務化された項目を開示するだけで、その背景にある戦略や具体的な取り組み、そして企業独自の人的資本に関するストーリーが十分に伝わらないケースが見られます。単なる報告に留まり、実質的な経営戦略との連動が弱い場合、開示が形骸化するリスクがあります。
- SDGs視点の不足: 開示項目はSDGsのいくつかの目標(SDG 5, 8, 10など)と関連が深いものの、多くの企業では人的資本戦略とSDGs達成への貢献という視点が十分に統合されていない可能性があります。人的資本への投資が、企業の持続可能性だけでなく、より広範な社会課題の解決にどう貢献しているのか、という視点でのストーリーテリングが重要です。
- 日本固有の雇用慣行との関係: 長年の日本型雇用慣行(終身雇用、年功序列など)が、必ずしも多様性や流動性の高いグローバル基準の人的資本経営と完全に整合しない場合があります。労働市場の変化や働き方の多様化が進む中で、これらの慣行を見直しつつ、人的資本の価値を最大化する戦略が求められています。
- データ活用の遅れ: 人的資本に関するデータを収集・分析し、経営意思決定に活かすための体制やノウハウが十分に確立されていない企業も存在します。客観的なデータに基づいた目標設定と効果測定が、実効性のある人的資本経営には不可欠です。
これらの課題を克服し、人的資本開示を単なる義務ではなく、企業価値向上とSDGs達成のための戦略的なツールとして活用することが、日本企業には求められています。
企業の取るべきアプローチ:SDGsを羅針盤とした人的資本戦略
企業のSDGs推進担当者は、人的資本経営をSDGsの達成と結びつけ、経営戦略に統合するための重要な役割を担います。以下に、実践的なアプローチを示します。
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人的資本戦略とSDGs目標の紐付け: 企業の人的資本に関する現状分析(DEIの状況、従業員エンゲージメント、スキルギャップなど)を行い、それがSDGsのどの目標(例: SDG 5、8、10)と特に関連が深いのかを明確にします。その上で、人的資本に関する具体的な目標(KPI)を設定し、それがSDGs達成にどのように貢献するのかを定義します。例えば、「2030年までに管理職の女性比率をX%に引き上げる(SDG 5)」、「従業員のスキルアップ研修への投資を年間Y円に増額する(SDG 8)」、「外国人材の採用比率をZ%にする(SDG 10)」などです。
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データに基づいた現状把握と課題特定: 多様な人的資本に関するデータを収集・分析するための体制を構築します。従業員サーベイ、人事データ、労働時間、労働災害発生率など、定量的なデータを活用して、自社の強みや弱みを客観的に把握します。これにより、注力すべき領域(例: ジェンダーギャップ解消、長時間労働是正、特定のスキル開発など)が明らかになります。
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経営層との連携強化と推進体制構築: 人的資本経営は全社的な取り組みであるため、経営層のコミットメントが不可欠です。SDGs担当者は、人的資本の重要性やSDGsとの関連性について経営層に提言し、戦略策定や推進体制構築をサポートします。人事部門との緊密な連携はもちろん、CSR/サステナビリティ部門、広報部門とも連携し、一貫したメッセージの発信と取り組みの推進を図ります。
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効果的な情報開示とコミュニケーション: 有価証券報告書での義務的な開示に加え、統合報告書、サステナビリティレポート、ウェブサイトなどを活用して、自社の人的資本戦略、具体的な取り組み、設定したKPIの進捗、そしてそれがSDGs達成にどのように貢献しているかという「ストーリー」を分かりやすく伝えます。海外投資家やステークホルダーの関心が高いDEI、エンゲージメント、リスキリングなどについても、具体的なデータや事例を交えて詳細に解説することが信頼性向上に繋がります。例えば、ある製造業の企業が、外国人技能実習生の受け入れ体制を改善し、労働条件や生活環境をSDGs目標8.8(労働者の権利保護)や目標10.7(計画的で安全かつ秩序ある人の移動)に沿って整備した事例などを、具体的な数値(例:労働災害件数の減少率、定着率の向上)とともに紹介することが考えられます。
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国内外の先進事例の研究と導入検討: 人的資本経営やSDGs推進において先行する国内外の企業の事例を積極的に研究します。特に、DEI推進における具体的な施策(例:アファーマティブアクション、メンター制度)、従業員エンゲージメント向上のための施策(例:柔軟な働き方制度、透明性の高い評価制度)、スキル開発への投資(例:社内大学、外部研修支援)など、自社に適用可能なベストプラクティスがないかを検討します。
展望:人的資本とSDGsの統合が拓く未来
人的資本経営は、単なる法令遵守や外部からの要求に応えるための活動ではありません。それは、企業の最も重要な資産である「人」を最大限に活かし、変化の激しい時代においても持続的に成長していくための経営戦略そのものです。そして、この戦略をSDGsの視点と統合することで、企業は経済的な価値創造と社会的な価値創造を両立させることが可能となります。
多様な人材がそれぞれの能力を発揮し、働きがいを感じられる組織は、イノベーションを生み出し、変化への適応力を高めます。このような組織文化の醸成は、SDGsが目指す包摂的な社会の基盤を企業内部から築くことに繋がります。
日本の企業が、人的資本に関するデータ開示の義務化を契機に、より戦略的な視点から人的資本経営とSDGsの統合を進めることは、国際社会からの信頼を高め、新たなビジネス機会を創出し、未来世代に豊かな社会を引き継ぐための重要な鍵となります。SDGs推進担当者には、この潮流を深く理解し、自社の経営戦略に落とし込み、実行していくことが強く期待されています。