公正な移行(Just Transition)の国際潮流:脱炭素移行期の社会課題と企業が取るべき戦略
公正な移行(Just Transition)とは何か:SDGs達成における重要性
脱炭素社会への移行は、気候変動への喫緊の対応として世界中で加速しています。しかし、この急速な変化は、エネルギー産業、製造業、運輸業など、特定の産業や地域において雇用や経済構造に大きな影響を及ぼす可能性があります。公正な移行(Just Transition)とは、このような移行プロセスにおいて、負の影響を最小限に抑え、すべての人が取り残されることなく、公平かつ包摂的な方法で持続可能な社会への変革を実現するという考え方です。
国際労働機関(ILO)は、公正な移行を「グリーンエコノミーへの移行を、ディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を最大限に創出し、社会正義を実現し、労働者、産業、地域社会を支援する方法で進めること」と定義しています。これはSDGsのゴール8(働きがいも経済成長も)やゴール10(人や国の不平等をなくそう)、ゴール13(気候変動に具体的な対策を)など、複数の目標達成に不可欠な概念です。
企業のSDGs推進担当者にとって、公正な移行は単なる社会貢献の側面だけでなく、事業継続、サプライチェーンの安定性、人材確保、レピュテーションリスク管理といった経営の根幹に関わる重要なテーマとなっています。
公正な移行に関する世界の潮流
公正な移行の概念は、気候変動枠組条約締約国会議(COP)の議論で重要視されるようになり、パリ協定の前文にもその原則が盛り込まれています。近年、この議論はさらに具体化し、各国の政策や企業の取り組みに影響を与えています。
主要な潮流としては、以下の点が挙げられます。
- 国際的な規範の形成: ILOの「環境的に持続可能な経済に向けた公正な移行のためのガイドライン」などが、国際的な基準や実践の指針となっています。主要な国際会議では、脱炭素目標達成に向けたロードマップの中で、雇用や社会保障への配慮が不可欠であるとの認識が共有されています。
- 各国の政策への統合: 欧州連合(EU)は、欧州グリーンディールにおいて「公正な移行メカニズム」を設置し、石炭産業に依存する地域など、移行による影響が大きい地域への財政支援や支援策を具体的に展開しています。米国も、クリーンエネルギーへの投資に伴う雇用創出と、化石燃料産業からの労働者支援を政策の中心に据えています。途上国においても、化石燃料からの脱却に伴う開発目標との両立が模索されています。
- 金融分野での注目: サステナブルファイナンスの文脈でも、公正な移行への配慮が求められています。移行リスク(Transition Risk)の中でも、雇用や地域社会への影響といった社会的な側面がリスク評価の対象となりつつあります。投資家は、企業の脱炭素戦略が公正な移行の原則に則っているか、労働者や地域社会との対話を十分に行っているかなどを評価するようになっています。
- 企業への要請の増加: 企業に対して、自社の事業活動およびサプライチェーンにおける公正な移行への影響を評価し、労働者への再訓練・再配置、地域経済への貢献、コミュニティとの対話など、具体的な対策を講じるよう求める声が高まっています。特に、エネルギー集約型産業や化石燃料関連事業を行う企業にとって、これは喫緊の課題です。
これらの潮流は、単に環境目標を達成するだけでなく、社会的な安定と公平性を同時に追求するという、SDGsの包括的なアプローチを反映しています。
日本の現状と企業が直面する課題
日本においても、2050年カーボンニュートラル目標の実現に向けたエネルギー政策や産業構造の転換が進められています。しかし、公正な移行という概念への社会全体の認識や具体的な政策、企業レベルでの準備は、国際的な議論と比較すると遅れている側面があるという指摘があります。
日本の現状における公正な移行に関する課題は多岐にわたります。
- 地域経済への影響: 石炭火力発電所の段階的な廃止や、化石燃料関連産業の縮小は、それらの産業が集積する地域経済や雇用に直接的な影響を与えます。地域の主要産業が転換期を迎える中、新たな雇用機会の創出や地域経済の多角化が喫緊の課題となっていますが、そのための具体的なロードマップや支援策が十分とは言えません。
- 労働者のリスキリング・再配置: エネルギー転換や産業構造の変化に伴い、既存のスキルが陳腐化する労働者が発生する可能性があります。これらの労働者に対する効果的な再訓練プログラムの提供や、新たな成長分野への円滑な再配置を支援する仕組みの構築が必要です。しかし、企業任せになっている部分が多く、労働者側も変化への不安を抱えています。
- サプライチェーン全体での課題: 日本企業はグローバルなサプライチェーンの中に組み込まれています。脱炭素化への取り組みをサプライヤーに求める際、サプライヤー側の公正な移行への配慮が十分でない場合、サプライチェーン全体で社会的なリスクを抱えることになります。特に中小企業においては、公正な移行への対応能力にばらつきがあります。
- 政府の取り組みと企業の連携: 政府は「地域脱炭素ロードマップ」などを推進していますが、地域経済や雇用への具体的な影響評価や、公正な移行を促進するための包括的な法制度・政策枠組みの整備は途上段階です。企業は、政府や自治体、労働組合、地域社会など多様なステークホルダーとの連携を通じて、公正な移行を実効性のあるものにしていく必要がありますが、そのためのプラットフォームや知見が不足しています。
これらの課題は、日本企業が脱炭素経営を進める上で避けて通れないものであり、これらを解決せずに環境目標だけを追求することは、社会的な分断を生み、長期的な事業基盤を揺るがすリスクとなり得ます。
企業が取るべきアプローチと戦略
公正な移行はリスクであると同時に、新たな事業機会や企業価値向上に繋がる可能性も秘めています。日本企業がこの課題に戦略的に対応するためには、以下の点に注力することが重要です。
- 影響評価とリスク管理: 自社の事業活動、サプライチェーン、そして事業を展開する地域において、脱炭素化が雇用や地域社会にどのような影響を与える可能性があるかを事前に評価し、潜在的な社会リスクを特定することが出発点となります。人権デューデリジェンスの枠組みの中に、公正な移行の視点を組み込むことも有効です。
- 労働者との対話と投資: 労働組合を含む従業員との誠実な対話を通じて、脱炭素化計画の進捗や雇用への影響について共有し、不安を解消することが重要です。必要に応じて、従業員へのリスキリングやアップスキリング(既存スキルの高度化)の機会を提供し、新たな事業分野や職務への配置転換を支援するための投資を積極的に行うべきです。
- 地域社会との連携: 事業所の閉鎖や縮小、事業転換を行う際は、地域経済への影響を最小限に抑えるための計画を早期に策定し、自治体や地元企業、住民組織と連携して実行することが求められます。代替産業の誘致、地域人材の活用、地域インフラへの貢献など、地域経済の多角化や活性化に資する取り組みは、企業の社会的な正統性を高めます。
- サプライチェーンにおける働きかけ: サプライヤーに対して、脱炭素化への取り組みを求めるだけでなく、その過程で発生しうる雇用や労働条件への影響についても配慮を求めるべきです。サプライヤーが公正な移行への対応能力を高められるよう、情報共有や技術支援を行うことも検討に値します。
- 情報開示とコミュニケーション: 公正な移行に関する自社の取り組み、目標、進捗状況について、従業員、地域社会、投資家を含むステークホルダーに対して透明性高く情報開示を行うことが重要です。これにより、企業の信頼性を高め、エンゲージメントを促進することができます。
展望と結論
公正な移行は、単に社会的なコストを負担するという受動的な取り組みではなく、脱炭素社会という将来像を見据え、人材戦略、地域戦略、サプライチェーン戦略を統合的に再構築する機会です。公正な移行への積極的な投資は、従業員のエンゲージメント向上、優秀な人材の確保、地域社会からの信頼獲得、新たなビジネスモデルの創出に繋がり、長期的な企業価値向上に貢献する可能性があります。
世界的に公正な移行への注目が高まる中、日本企業もこの流れに遅れることなく、リスクを機会に変える戦略的なアプローチが求められています。政府、企業、労働組合、市民社会が一体となって、誰一人取り残さない持続可能な未来の実現に向けた具体的な行動を加速させていくことが、今まさに必要とされています。