ディープSDGs:世界の潮流と日本の現実

ネイチャーポジティブの国際潮流と日本企業の戦略:TNFD時代の生物多様性保全

Tags: ネイチャーポジティブ, 生物多様性, TNFD, 企業戦略, 情報開示, サステナビリティ

はじめに:生物多様性の損失とネイチャーポジティブの重要性

近年、気候変動と並ぶ地球規模の危機として、生物多様性の損失が国際社会で強く認識されています。国連の報告書では、世界の生物種の約100万種が絶滅の危機にあると指摘されており、これは食料、水、健康、経済活動など、人類の生存基盤そのものを脅かすものです。

このような状況に対し、生物多様性の損失を食い止め、回復に向かわせる「ネイチャーポジティブ(Nature Positive)」という考え方が国際的な主流となりつつあります。これは単なる保全活動にとどまらず、経済活動を通じて自然資本の損失を食い止め、2030年までに回復軌道に乗せることを目指す、より積極的なアプローチです。企業は、サプライチェーン全体や事業活動が生物多様性に与える影響を評価し、負の影響の低減だけでなく、正の影響の創出へとシフトすることが求められています。

本稿では、このネイチャーポジティブを巡る国際的な潮流、特に企業に対する情報開示要求の高まりを牽引する「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)」の動向に焦点を当てます。そして、これらの国際的な動きに対する日本の現状と課題、さらに日本企業がネイチャーポジティブ実現に向けて取り組むべき具体的な戦略やアプローチについて、専門的な視点から詳細に解説します。企業のSDGs推進担当者が、複雑化する生物多様性を取り巻く課題に対し、自社のビジネス戦略としてどのように向き合うべきか、その一助となる情報を提供することを目指します。

世界の潮流:ネイチャーポジティブ目標とTNFDの台頭

生物多様性に関する国際的な議論は、国連生物多様性条約(CBD)のもとで進められています。2022年12月に開催されたCOP15(生物多様性条約締約国会議第15回会合)では、「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が採択されました。この枠組の中心的な目標の一つに、2030年までに生物多様性の損失を止め、回復軌道に乗せる「ネイチャーポジティブ」の実現が掲げられています。これは、気候変動におけるパリ協定のような、生物多様性に関する世界共通の長期目標として位置づけられています。

この枠組のターゲットの一つである目標15では、大企業および金融機関に対し、生物多様性に関するリスク、依存関係、影響を評価・監視し、関連情報を定期的かつ透明性をもって開示すること、さらに消費者への情報提供や選択肢の提供が求められています。これは、生物多様性に関する企業の情報開示が国際的な要請として明確に位置づけられたことを意味します。

このような情報開示のニーズに応える形で登場したのがTNFDです。TNFDは、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の成功をモデルに、企業や金融機関が自然関連のリスクと機会を評価・管理し、開示するための枠組みを開発しました。2023年9月に最終版の「TNFD提言」が公表され、その推奨事項はTCFDと同様に、ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標の4つの柱で構成されています。

TNFDの特徴的な要素は、企業が自社の活動、バリューチェーン全体、そして金融活動が自然に与える影響や自然への依存関係を評価するための実践的なプロセスとして「LEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)」を推奨している点です。これにより、企業は自社の事業と自然との接点を特定し、具体的なリスクと機会を評価することが可能になります。

TNFD提言は、グローバルな金融安定性や企業価値に自然関連のリスクと機会を統合することを目指しており、既に多くの企業や金融機関がTNFDへの賛同や情報開示に向けた準備を進めています。欧州連合(EU)などでは、サステナビリティ情報開示指令(CSRD)において、生物多様性や生態系に関する開示も義務付けられており、TNFDの枠組みが国際的なデファクトスタンダードとなる可能性が高まっています。

日本の現状と課題:ネイチャーポジティブへの道筋

日本政府は、昆明・モントリオール生物多様性枠組を踏まえ、新たな国家戦略として「生物多様性国家戦略2023-2030」を策定しました。この戦略でも、ネイチャーポジティブの実現が明確に目標として掲げられています。企業行動への期待も盛り込まれており、サプライチェーン全体での影響評価や情報開示の推進などが挙げられています。

日本企業における生物多様性への取り組みは、一部の先進的な企業が早くから保全活動などを行ってきた歴史があります。しかし、事業と生物多様性との関連性をリスク・機会として捉え、経営戦略に統合するアプローチは、気候変動対策と比較してまだ十分に進んでいるとは言えません。

TNFDへの対応に関しては、日本は世界でも有数の賛同企業数を誇っており、その関心の高さが伺えます。しかし、多くの企業はまだ情報開示の具体的な内容や評価方法について模索している段階です。特に以下の点が課題として挙げられます。

  1. 生物多様性の評価とデータ収集の難しさ: 気候変動におけるGHG排出量のような標準化された指標が少なく、事業活動やサプライチェーンが生物多様性に与える影響や依存関係を定量的に評価するための手法やデータの収集が難しいという技術的な課題があります。サプライチェーンの上流・下流まで含めた評価は特に複雑です。
  2. 情報開示の具体的な内容と質: TNFD提言はフレームワークを提供しますが、具体的な開示内容については企業の状況に応じた判断が必要です。どのような情報を、どの粒度で開示すべきか、またその情報の信頼性をどのように担保するかが課題となります。
  3. ビジネス戦略への統合: 生物多様性を単なるCSR活動やリスク管理の一部と捉えるのではなく、新たな事業機会の創出や企業価値向上に繋がる戦略として、経営の中核に統合することが求められますが、その具体的な道筋が見えにくい現状があります。
  4. ステークホルダーとの連携: サプライヤー、顧客、地域社会、NGO、金融機関など、多様なステークホルダーとの連携が不可欠ですが、その連携体制の構築や共通理解の醸成に課題があります。

日本企業が取るべきアプローチ:TNFD対応とネイチャーポジティブ戦略

国際的な潮流と国内の課題を踏まえ、日本企業がネイチャーポジティブ実現に向けて取り組むべきアプローチは多岐にわたります。

  1. 経営層のコミットメントとガバナンス体制の構築: 生物多様性を重要な経営課題として認識し、経営層がコミットすることが不可欠です。生物多様性を含む自然資本に関するリスクと機会を監督するガバナンス体制を構築し、関連する意思決定プロセスに組み込む必要があります(TNFDのガバナンスの柱)。
  2. 自然関連のリスクと機会の評価・特定: TNFDのLEAPアプローチなどを参考に、自社の事業活動、バリューチェーン、投融資ポートフォリオが自然に与える影響(例:土地利用の変化、汚染、資源の過剰利用)や自然への依存関係(例:水資源、生態系サービス)を評価します。これにより、ビジネスにおける短期・中期・長期的なリスク(物理的リスク、移行リスク、システムリスク)と機会(新市場、コスト削減、ブランド価値向上)を特定します(TNFDの戦略およびリスク管理の柱)。
  3. 戦略策定と目標設定: 評価結果に基づき、特定されたリスクを管理し、機会を最大化するための戦略を策定します。ネイチャーポジティブ実現に向けた具体的な目標(例:2030年までに生物多様性の損失をネットゼロにし、回復軌道に乗せる)を設定し、その達成に向けたロードマップを作成します(TNFDの指標と目標の柱)。目標設定においては、科学的根拠に基づく目標(SBT for Natureなど)も検討が進められています。
  4. 具体的な取り組みの推進:
    • サプライチェーンにおける管理: サプライヤーと連携し、原材料調達や生産プロセスにおける生物多様性への負の影響を低減し、正の影響を創出する取り組みを進めます。トレーサビリティの確保やサステナブルな調達基準の導入などが含まれます。
    • 事業所敷地や周辺地域での取り組み: 自社の事業所敷地内や周辺地域で、生物多様性の保全や再生に繋がる活動(例:緑化、外来種駆除、地域社会との連携)を行います。
    • 製品・サービスを通じた貢献: 生物多様性の保全や回復に貢献する製品やサービスを開発・提供します(例:環境配慮型製品、生態系サービスを活用したソリューション)。
    • 技術活用: リモートセンシングやAIなどの技術を活用し、生物多様性のモニタリングや評価の効率化・高度化を図ります。
  5. 情報開示の準備と実施: TNFD提言の推奨事項に沿って、自然関連のリスクと機会、戦略、指標と目標に関する情報開示を進めます。TCFDと同様、既存のサステナビリティ報告書や統合報告書に組み込む形式が考えられます。開示にあたっては、評価の範囲、方法、結果などを具体的に記述し、信頼性を高めることが重要です。早期に開示に着手し、改善を重ねていくアプローチも有効です。
  6. ステークホルダーとの対話と連携: 金融機関との対話を通じて、資金調達における生物多様性の考慮を促したり、NGOや地域住民との協働を通じて、より効果的な保全・再生活動を進めたりします。

展望:ネイチャーポジティブと企業価値

ネイチャーポジティブへの取り組みは、単なるコストや規制対応ではなく、企業の持続可能性と競争力強化に不可欠な要素となりつつあります。生物多様性の損失は、将来的な資源枯渇、サプライチェーンの寸断、規制強化、風評被害など、様々なビジネスリスクに直結します。一方で、ネイチャーポジティブへの貢献は、新たなビジネス機会の創出、サプライチェーンの強靭化、ブランドイメージ向上、優秀な人材確保、そして新たな資金調達源へのアクセスなど、企業価値向上に繋がる可能性があります。

今後、TNFDに沿った情報開示が広く普及することで、企業間の生物多様性への取り組み状況が可視化され、投資家や顧客からの評価に大きな影響を与えると考えられます。日本企業が世界の潮流に乗り遅れることなく、ネイチャーポジティブを経営戦略の中核に位置づけ、実践的な取り組みを進めることが、国際市場での競争力を維持・向上させる鍵となるでしょう。

生物多様性への対応は複雑かつ長期的な課題ですが、企業の創意工夫と技術力をもってすれば、解決策は見出せます。ネイチャーポジティブは、未来世代へ豊かな自然資本を引き継ぐ責任であると同時に、企業が持続的に成長するための重要な機会でもあります。企業のSDGs担当者には、社内外の関係者と連携しながら、この新たな挑戦を牽引していく役割が期待されています。