サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンス:グローバル規制の波と日本企業の戦略的対応
サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンス義務化の潮流と日本企業の課題
近年、企業活動におけるサステナビリティの重要性が高まるにつれて、その責任範囲は自社の直接的な事業活動に留まらず、原材料の調達から製造、流通、販売、そして廃棄に至るサプライチェーン全体に拡大しています。特に、サプライチェーンにおける人権侵害や環境破壊のリスクへの対応は、国際社会における喫緊の課題と認識されており、企業に対して「人権・環境デューデリジェンス」の実施を義務付ける動きが世界的に加速しています。
これは単なる企業の倫理的な努力目標ではなく、欧州を中心に法規制化が進んでおり、多くの日本企業もその影響を直接的または間接的に受けることになります。本稿では、このサプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンスに関するグローバルな規制の潮流を概観し、日本企業が直面する現状と課題、そして今後取るべき戦略的なアプローチについて専門的な視点から解説します。
世界におけるサプライチェーン・デューデリジェンス規制の動向
サプライチェーンにおける人権・環境リスクへの対応は、これまで企業による自主的な取り組みやソフトロー(国際的な規範やガイドライン)への準拠が中心でした。しかし、強制労働問題や環境汚染などの深刻な事例が多発する中で、企業に対するより強制力のあるデューデリジェンスの実施を求める動きが強まっています。
この動きを主導しているのは欧州連合(EU)およびその加盟国です。
EUにおける規制強化
EUレベルでは、「企業持続可能性デューデリジェンス指令(Corporate Sustainability Due Diligence Directive, CS3D)」の採択に向けた議論が進められています。この指令は、EU域内外の一定規模以上の企業に対し、自社およびそのサプライチェーンにおける人権・環境への負の影響を特定、防止、軽減、是正することを義務付けるものです。対象となるリスクは、強制労働、児童労働、環境汚染、生物多様性の損失など多岐にわたります。指令が発効すれば、EU域内で事業展開する日本企業や、EU域内企業と取引のある日本企業は、その適用を受ける可能性があります。
EU加盟国レベルでも、先行して独自の法律が制定されています。
- ドイツ サプライチェーンデューデリジェンス法(LkSG): 2023年1月1日に施行され、一定規模以上の企業にサプライチェーンにおける人権および環境関連リスクの特定、評価、防止措置、是正措置、苦情処理メカニズムの設置、報告義務などを課しています。違反企業には罰金が科されます。
- フランス 企業注意義務法: 2017年に施行され、大規模企業に対し、子会社、下請け企業、サプライヤーにおける人権および環境リスクに関する警戒計画(デューディリジェンス計画)の策定・実施・公表を義務付けています。
米国における動向
米国では、特にサプライチェーンにおける強制労働排除に焦点を当てた動きが見られます。
- ウイグル強制労働防止法(Uyghur Forced Labor Prevention Act, UFLPA): 中国新疆ウイグル自治区からの特定の物品の輸入を原則禁止し、輸入企業に強制労働によって生産されていないことの立証責任を課す法律です。これは、対象となるサプライチェーン全体でのトレーサビリティ確保とデューデリジェンス実施を企業に強く求めています。
これらの法規制は、企業がサプライチェーンの上流まで遡ってリスクを特定し、その対応策を実行することを強制するものであり、単なるリスク管理やCSRの枠を超えた、企業の新たな法的義務として認識されつつあります。
日本の現状と企業が直面する課題
世界的なデューデリジェンス規制の強化に対して、日本の法整備は現状では後れを取っていると言えます。政府は「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定し、企業による自主的な取り組みを推奨していますが、欧米のような法的義務を課すものではありません。
このような状況において、日本企業は以下のようないくつかの主要な課題に直面しています。
- 法規制への対応準備の遅れ: 特に欧州の新規制(CS3D、LkSGなど)への対応準備が十分に進んでいない企業が多く存在します。これらの規制は対象企業や要求事項が厳格であり、十分な対応期間が必要です。
- サプライチェーンの複雑性と可視性の不足: 多くの日本企業は、多階層で複雑なサプライチェーンを有しており、二次、三次サプライヤー以降の実態把握が困難です。どこでどのようなリスクが存在するのか、可視性を確保することが大きな壁となっています。
- データ収集と分析の能力不足: サプライチェーン全体のリスク情報を収集し、評価・分析するためのデータ管理システムや専門人材が不足しています。
- 中小企業への影響: 大企業のサプライヤーである中小企業は、取引先からのデューデリジェンスに関する要請に対応するためのリソースやノウハウが限られています。サプライチェーン全体での対応能力向上が求められます。
- 既存の調達・購買プロセスの見直し: 従来の価格や品質のみを重視した調達プロセスから、人権・環境リスクを含むサステナビリティ要素を組み込んだプロセスへの見直しが必要です。
- グローバルな知見の不足: 各国の法規制や国際的な人権・環境基準に関する最新情報の把握や、グローバルなサプライヤーとのコミュニケーションにおける専門的な知見が不足している場合があります。
これらの課題に対し、日本企業は待ったなしの対応を迫られています。グローバルサプライチェーンを維持し、新たなビジネス機会を捉えるためには、欧米の規制動向を正確に理解し、自社のサプライチェーンにおけるリスクを適切に評価・管理する体制を早急に構築する必要があります。
企業が取るべき戦略的アプローチ
サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンスへの対応は、単なる規制遵守のコストとして捉えるのではなく、企業のレジリエンス強化、ブランド価値向上、そして新たなビジネス機会創出のための戦略的な投資として位置付けることが重要です。具体的には、以下のステップが考えられます。
- 方針策定とコミットメント: 最高責任者による人権・環境尊重への明確なコミットメントを表明し、サプライチェーン全体に適用される方針を策定・公表します。
- リスク評価と特定: サプライチェーン全体をマッピングし、地理的なリスク、製品・サービス固有のリスク、事業関係者の特性に基づくリスクなどを網羅的に評価し、重点的に対応すべきリスクを特定します。リスクベースアプローチが効果的です。
- 防止策と軽減策の実施: 特定されたリスクに対し、サプライヤー行動規範の改定・浸透、契約条項への反映、サプライヤー評価プロセスの強化、能力開発支援など、リスクを防止・軽減するための具体的な措置を実施します。
- 是正措置と苦情処理メカニズムの設置: 実際に発生した、あるいは発生しうる負の影響に対し、被害者救済を含む適切な是正措置を講じます。また、サプライチェーン上の関係者がリスクや被害を報告できる実効性のある苦情処理メカニズム(通報窓口など)を設置・運用します。
- 効果の検証と改善: 実施したデューデリジェンスプロセスの効果を定期的に検証し、継続的な改善を行います。
- 情報開示とコミュニケーション: デューデリジェンスへの取り組み状況、特定されたリスク、講じた措置、その効果などを、透明性をもってステークホルダーに開示します(例: サステナビリティレポート)。サプライヤーや業界団体との積極的なコミュニケーションも重要です。
これらのプロセスを実効性あるものとするためには、部門横断的な連携(調達、法務、CSR/サステナビリティ、リスク管理など)や、外部の専門家やテクノロジー(リスク評価ツール、トレーサビリティシステムなど)の活用も不可欠です。特に、AIやブロックチェーンなどの技術は、複雑なサプライチェーンの可視化やデータ収集・分析において有効な手段となり得ます。
今後の展望
サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンスへの要求は、今後さらに厳格化し、対象範囲も拡大していくと予想されます。欧州の規制が世界のスタンダードとなり、アジアを含む他の地域でも同様の動きが広がる可能性があります。
日本企業にとっては、この潮流をリスクとしてだけでなく、競争力強化の機会として捉えることが重要です。責任あるサプライチェーン構築への積極的な取り組みは、海外市場での信頼性向上、ESG投資家からの評価向上、優秀な人材の確保、そしてサプライヤーとのより強固で持続可能な関係構築につながります。また、新たなサステナブルな製品・サービスの開発や、サプライチェーン全体の効率化・最適化といったビジネス機会を見出すことにも貢献するでしょう。
まとめ
サプライチェーンにおける人権・環境デューデリジェンスは、グローバル企業にとって避けて通れない経営課題となっています。欧州を中心に法規制化が進む中、日本企業もその影響を十分に理解し、待ったなしの対応を進める必要があります。複雑なサプライチェーンの可視化、データ管理能力の強化、そして部門横断的な体制構築が求められます。
しかし、これは単なる規制対応に留まらず、企業のレジリエンスを高め、新たなビジネス機会を創出するための戦略的な取り組みです。本稿で概観したグローバルな潮流と日本の現状を踏まえ、各企業は自社の状況に合わせた実効性のあるデューデリジェンスプロセスを構築し、責任あるサプライヤーとしての地位を確立していくことが期待されます。