バリューチェーンにおける水リスク管理:SDGs目標6を核とする国際潮流と日本企業の戦略
はじめに:増大する水リスクと企業経営
地球規模での気候変動の進行や人口増加、経済活動の拡大に伴い、水資源を巡る状況は世界各地で急速に変化しています。干ばつによる水不足、豪雨による洪水、水質汚染といった水に関連するリスク(水リスク)は、特定の地域や産業に限らず、多くの企業の事業継続や成長に影響を及ぼす喫緊の課題となっています。
国連の持続可能な開発目標(SDGs)においても、目標6「安全な水とトイレを世界中に」が掲げられ、安全な水へのアクセス確保、水質改善、水利用効率の向上、水関連生態系の保護などが国際社会共通の優先課題として認識されています。しかし、目標達成に向けた進捗は多くの地域で遅れており、水リスクはむしろ増大傾向にあります。
企業にとって、水リスクは単に水源の確保や排水処理といった直接的な操業リスクに留まりません。原材料調達から生産、物流、販売、製品使用、廃棄に至るバリューチェーン全体で発生する可能性があり、物理的な被害に加え、規制強化、コスト増加、ブランドイメージ低下といった多岐にわたる影響をもたらします。
本稿では、企業がバリューチェーン全体で向き合うべき水リスク管理について、SDGs目標6に関連する国際的な潮流、特に企業に求められる情報開示や対応に関する動きを解説し、それに対する日本企業の現状と課題、そして今後の戦略的アプローチについて専門的な視点から掘り下げていきます。
国際的な水リスク管理と情報開示の潮流
世界的に、水リスクを経営課題として捉え、積極的な管理と情報開示を求める動きが加速しています。投資家やNGOは、企業の財務リスクとしてだけでなく、環境・社会課題への貢献という観点からも水リスクへの対応状況を注視しています。
主要な国際的な枠組みとしては、気候変動関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)の提言に水関連リスクを含める動きが広まっているほか、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)のフレームワークでは、水は土地、海洋、淡水、大気という自然資本の構成要素の一つとして、その状態と変化が企業の事業活動に与える影響や、企業活動が水系に与える影響の評価・開示が強く推奨されています。
水に特化した情報開示プラットフォームであるCDP Water Securityへの回答企業数は年々増加しており、企業は水源の状況、水リスクの評価プロセス、削減目標、バリューチェーン全体での取り組みなどを開示しています。この開示情報は、投資家や顧客、サプライチェーンパートナーが企業の水リスク対応能力を評価する上で重要な指標となっています。
また、Alliance for Water Stewardship (AWS) などの国際的な基準は、流域単位での水管理の実践を促し、企業が自社拠点だけでなく、影響力を行使できる範囲で地域社会や他の水利用者との協働を通じて持続可能な水資源利用に貢献するためのガイダンスを提供しています。これらの基準は、単なる水使用量の削減だけでなく、水質保全、水関連生態系の健全性維持、水ガバナンスの改善といったSDGs目標6が包含する広範な側面に焦点を当てています。
これらの潮流は、企業に対し、自社が直接管理する範囲を超えて、バリューチェーン全体、さらには事業を展開する流域における水リスクと機会を統合的に評価し、対応策を講じ、その状況を透明性高く開示することを求めています。
日本の現状と企業の水リスク対応の課題
日本は、年間降水量が多く「水資源が豊富」という一般的な認識がありますが、地域によっては水不足や渇水リスクが存在し、また近年は集中的な豪雨による洪水リスクが増大しています。さらに、水源地域や下流域での水質汚染、インフラの老朽化といった課題も抱えています。
日本企業の多くは、自社の工場や事業所における直接的な水利用や排水管理については、法規制遵守やコスト削減の観点から一定の取り組みを行ってきました。しかし、バリューチェーン全体、特に海外のサプライヤーにおける水リスクや、事業を行う流域全体の水課題に対する認識と具体的な対策については、グローバルな先進企業に比べて立ち遅れているのが現状です。
課題としては、以下のような点が挙げられます。
- バリューチェーン全体のリスク認識の不足: 自社の直接的なオペレーションにおける水リスクに比べて、原材料生産地や部品供給地の水リスク、製品使用段階での水利用効率などが十分に把握・評価されていないケースが多く見られます。
- サプライヤーとの協働の難しさ: サプライヤー、特に中小規模のサプライヤーや海外のサプライヤーに対して、水リスク評価や改善を求めることの難しさ。
- 流域単位での取り組みの不足: 自社拠点が属する流域全体の水資源管理や生態系保全に対し、他のステークホルダー(地域住民、自治体、他の企業など)と連携して取り組む事例がまだ限定的であること。
- 統合的な情報開示の遅れ: 水リスクと機会を、気候変動や生物多様性といった他の環境課題、さらには経営戦略と関連付けて統合的に開示するレベルが、国際的な要求水準に達していない場合があること。CDP Water Securityへの回答企業数も増加傾向にはありますが、対象となる日本企業全体から見ればまだ一部に留まります。
- 専門人材の育成: 水リスク評価や水資源管理に関する専門的な知識・スキルを持った人材が不足していること。
これらの課題は、単に環境対策というだけでなく、サプライチェーンの安定性、顧客からの信頼、資金調達といったビジネスの根幹に関わるリスクとして、企業価値に直接的な影響を与える可能性があります。
日本企業が取るべき戦略的アプローチ
グローバルな水リスク管理の潮流に対応し、持続可能な企業経営を実現するためには、日本企業は以下の点を踏まえた戦略的なアプローチを強化する必要があります。
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水リスクの統合的な評価と特定:
- 自社拠点だけでなく、バリューチェーンの上流(原材料調達)から下流(製品使用、廃棄)に至るまで、地域ごとの水ストレスレベル、法規制、インフラ状況などを網羅的に評価し、潜在的な水リスクを特定します。
- 物理リスク(水不足、洪水、水質)、移行リスク(規制強化、水価格上昇)、評判リスク(NGOからの批判、ブランドイメージ低下)など、多様なリスクを考慮に入れます。
- TCFDやTNFDのフレームワークを参考に、気候シナリオ分析等を通じて、将来的な水リスクの変化を予測・評価します。
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バリューチェーン全体での目標設定と削減努力:
- 評価結果に基づき、自社および主要なサプライヤーに対し、具体的な水利用効率改善、水使用量削減、水質改善に関する目標を設定します。
- 先進的な水処理技術や節水技術の導入を進めるとともに、サプライヤーへの技術支援や能力開発協力を行います。
- 再生水や雨水の利用、水循環システムの構築などを通じて、取水量の絶対量削減を目指します。
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流域単位での協働と貢献:
- 事業活動が特に水リスクの高い地域や重要な水源地域で行われている場合、当該地域の他の企業、地域住民、自治体、NGO等とのステークホルダー協働を強化します。
- 流域全体の水資源管理計画への参画、水源林の保全活動、水質改善プロジェクトへの貢献などを通じて、地域全体の水資源の持続可能性向上に寄与します。これは、企業にとってのオペレーションリスク低減だけでなく、社会的責任(CSR)や共通価値創造(CSV)の観点からも重要です。
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積極的な情報開示とエンゲージメント:
- CDP Water Security、統合報告書、サステナビリティレポートなどを通じて、水リスク評価プロセス、特定された主要リスク、目標、実績、バリューチェーンでの取り組み、流域での協働状況などを具体的かつ分かりやすく開示します。
- 投資家や顧客、地域社会との建設的な対話(エンゲージメント)を通じて、水リスク管理への理解促進と信頼醸成を図ります。
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新たなビジネス機会の探求:
- 水処理技術、節水システム、水質モニタリング、水インフラ整備、流域マネジメントに関するコンサルティングなど、水関連の課題解決に資する技術やサービスは、国内外で新たなビジネス機会となり得ます。SDGs目標6の達成に貢献する事業を積極的に展開することも重要です。
まとめ:経営課題としての水リスク管理
水リスクは、気候変動と同様に、企業の持続可能性を脅かす重要な経営課題となっています。グローバルな潮流は、単なる環境対策から、バリューチェーン全体と事業を行う地域社会を含む統合的なリスク管理と、その状況の透明性の高い開示へとシフトしています。
日本企業は、国内の「水資源が豊富」という固定観念を見直し、国内外の事業が直面する多様な水リスクを正しく評価・特定することから始めるべきです。その上で、バリューチェーン全体での水管理目標の設定、削減努力、そして流域単位でのステークホルダーとの協働を強化することが求められます。
水リスクへの適切な対応は、事業継続リスクの低減、コスト削減、ブランドイメージ向上、そして新たなビジネス機会の創出につながり、結果として企業の競争力強化とSDGs目標6達成への貢献を実現します。企業のSDGs推進担当者は、このバリューチェーンにおける水リスク管理の重要性を社内で啓発し、経営層や関連部署(調達、生産、物流、リスク管理、広報等)と連携しながら、戦略的な取り組みを推進していくことが不可欠です。